当時の写真資料で見る震災の様子
- カテゴリー
- 港・船
- 名称
- 船
- 画像タイトル
- 「F.O.No.3」
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- 出典/Source
- 横浜開港資料館所蔵 「震災直後の外国人アルバム」
- コメント/Comment
- 震災1年後に発行された朝日新聞に”ヘセルタイン氏はFO3号に乗って港内停泊中の諸汽船と陸上の連絡を取り、遭難者の海上避難と食料の運搬に務め”とある。
- 「古き横浜の壊滅」記載場所/The Death of Old Yokohama Index
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155頁
グランド・ホテルのわきの掘割にかかった橋のところで、私はキャプテン・ヘイズルタインの操縦するランチに、お話しの「死体らしきもの」を乗せ、ついでにこの戦利品を、そのとき定期航路途中のヴァンクーヴァ―から到着したばかりで、湾内に投錨していたエンプレス・オブ・カナダ号に移したのです。
P.102
I got the "bodies" onto a launch operated by Captain Heseltine at the Canal Bridge by the Grand Hotel and we took the booty out to the Empress of Canada, which had just arrived from Vancouver on her regular run and was anchored in the Bay.
- 朝日新聞
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朝日新聞 1924年8月25日 東京版 朝刊 7P
震災記念 一年前を偲ぶ 隠れた功労者 13
火の海に姿を現した二汽艇 片っ端から救助 健気な二英人
あの震災の折、逃げまどった人々は西洋人も日本人、支那人もみな「海へ、海へ」と叫んで、海へさえ逃げれば安全だと、横浜埠頭の雪崩れ寄せたが、一面火と化した海と、無残にも焼け落ちた桟橋を眺めた時、背後に猛火を背負ったこの人々は、ただ呆然として、全く絶望を叫ぶばかりであった。この時早くも二隻の汽艇を出して、救助にかかった健気な二名の外人があった。それは横浜市山下町オーストン商会支配人英国人クロード・へセルタイン氏と同キャプテン・イー・ロスタス氏の両氏であった。両氏は小蒸気船FO2号とFO3号に分乗して、船長牧秀吉、吉田福松、玉子石捨蔵等を督動して、西波止場、山下町海岸、新山下町等に逃げてきた西欧人、日本人、支那人の群衆を百余名ずつ満載して、港内に停泊中の各汽船に避難させた。両氏はそうして一日から三日まで、一睡もしなかった。
両氏の手によって辛うじて生命を全うし得た人々は、無慮数千に上っている。ヘセルタイン氏などは、火の燃える海中に身を投じて溺死せんとする人々を救助した。しかし、震災後両氏の美徳が世間に知れなかったのは、両氏が謙虚な沈黙の生粋の倫敦児だからである。記者がオーストン商会を訪ねた時、ヘセルタイン氏は休暇で帰国中で、忙しくタイプライターを打っていたロスタス氏は超然として語る。
「あの当時のことを思い出すと今でも身が引き締まるような気持ちがします。とにかく、百人くらいしか乗れない小蒸気に百五十名ずつも載せて行くのですから、気が気ではありませんでした。二日の夜明けまでに千や二千は船に収容させたと思います。三日の日には本牧方面や遠くは逗子鎌倉方面に避暑している人々のために長浜方面に蒸気を出して、老幼婦人を全部オーストリア号に収容しました。」
またヘセルタイン氏は「FO3号に乗って港内停泊中の諸汽船と陸上の連絡を取り、遭難者の海上避難と食料の運搬に務め、また英国軍艦デスパッチ号の来港するまで淡水と軽油とをできる限り供給したのです。漸く英国軍艦が来港した時、私たちは二隻の蒸気船を海軍救助用に提供し、二人とも軍艦に宿泊して極力救助に全力しました。」当時FO3号船長玉子石捨蔵君の如きは妻子の安否を知らず十数日後に漸く無事の顔を見合って涙に暮れたといわれている。
写真はロスタス氏とその署名